落合陽一展「未知への追憶」の感想と考察

みなさんこんにちは。

相変わらずコロナが猛威をふるっている風の世の中ですが、変革中の生活様式の中いかがお過ごしですか?

自分は「Gotoで旅行が安い」「会社の休みが増えた」「元々混雑した場所が好きではないのであまり困らない」等恩恵の方が多くなっていますが、一方で「ライブやコンサートがキャンセルになる」「お祭りに行けなかった」等残念なこともあります。一番残念なのは通っていた銀座のバーバーがコロナの影響で閉店が決まったこと。うらめしコロ助。

さて。そんな中ですが広いスペースをとりつつ工夫しながら開催されている「落合陽一展 未知への追憶」展示会を観に行ってみたので感想をレポしようと思います。この展示会を知ったきっかけは、ご本人のTwitter。

本来8月いっぱいまでだったものが延長になったとのことで、これはいい機会だと思いすぐに出発の準備をした。

今回の「未知への追憶」は、彼の2020年に解説した動画チャンネルのシーズンテーマでもあり、彼の2017年から2020年までの活動を俯瞰した展示会となっている。

落合陽一 未知への追憶展の画像
落合陽一 未知への追憶展

チケットにハガキが付いてきた。嬉しい。

コロナ化で心配な方もいるかもしれないが、会場は広くスペースがとられており、ディスタンスが保たれている。この間の中に思考する隙のようなものが生まれとてもよかった。また、ところどころ落合氏のメモのようなものが壁や地面に書かれていて興味深かった。無骨だが愛おしい。これも実際に足を運ぶからこそ感じられる趣だろう。

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落合陽一さんってどんな人?

落合陽一という方が何をしているのか知らないと展示会のイメージが湧きづらいと思うので、まずざっくりと説明してみようと思う。が、活動分野が幅広いためどんな人かを一言で説明するのが難しく、正確に伝えようとすると長文になるおそれがあるため、詳しく知りたい方は本人が書いたnoteを確認するとよい。(公式に丸投げ)

note(ノート)

2020年のまとめは上(この記事は2019年のまとめです) 落合陽一です.色々やっていると言われても,実…

読んでも、わからない人にはサッパリわからないかもしれない。ただ、できる限り正確に軌跡と思考を言語化しようとされているので、読みながらしっかり考えると意図は伝わるかと思う。noteに記載の通り何かで紹介される時の肩書き上は「メディアアーティスト」と答えているそうだ。その他、執筆活動、大学教員、会社経営、研究プロジェクトリーダーと、出生から僅か32年にも関わらず活動が多岐に渡るため、「どんな人?」という問いへの回答は、彼のどういった側面を切り取るかによって変わってくるといえる。

全ての活動が根底では繋がっていると捉えることもできるが、今回の展示会において彼を説明するにあたってもっとも遠からずな肩書きはやはり本人も使う「メディアアーティスト」だろう。しかしメディアアート自体耳馴染みがない人も多いジャンルかもしれないので、まずはそこから説明が必要かもしれない。

メディアアートって何?

メディアアーティストって何?|仕事百科(外部リンク)によると、

コンピューターや電子機器などのテクノロジーを利用した芸術表現

とのこと。その他「最先端の技術を使用したアート」等と定義されることもあるようだ。

表現方法としては、日本で今最も知名度が高い「チームラボ」がよく行っているものだが、オブジェや装置を設置し空間全体を作品として演出する「インスタレーションアート」だったり、あるいは特殊な装置を利用して体感するもの(触った電気が光る、鑑賞者が立った場所に合わせて映像が移動するなど)だったりと、表現の幅はかなり広い。

メディアと聞くと一般的には新聞などの「マス」メディアのイメージが強いかと思うが、メディアアートにおけるメディアは「媒体」や「手段」の意味合いが強いようだ。最新のテクノロジーや装置を通しての表現には、「媒体を通してアートを見る・触れる」ことだけでなく「その媒体自体を観察する」というメタ構造すらも表現の中に含まれているように感じる。落合氏の作品はまさにこの「メタ」な部分に目を向けさせられることが多く感じた。

「未知への追憶」はアート?宗教?哲学?

メディアアートにおける「装置」は、捉え方にもよるがとかなり広義のため「カメラ」や「テレビ」も含まれるかもしれない。例えば今の時代においてはブラウン管テレビに映る解像度の低い映像やインスタントカメラで撮ったピンボケの写真もメディアアートの表現に近いかもしれない。さらにそこに「撮る」或いは「転写する」ことの意味の定義や考察が入ると更にメディアアートの哲学の世界に深入りしていくこととなる。

今回の展示会はまさにそのようなメディアアートの、或いは我々がアートを鑑賞することの、或いは創造することの、或いは創造する自我と、それを捉える客我の、或いは被写体となる自然そのものの、自然を生み出すこの世界の、それぞれの意味と定義について深淵まで踏み込み哲学する機会となり得るものだと自分は捉えた。

もはや「アートを超えてアートマン(真我)の定義を試みる哲学」的な展示と言える。いや、アート自体が哲学的なものを内包する分野なのか。ということで、鑑賞する自分も、どこか荘厳な雰囲気の漂う空間に、何か禅寺の禅問答受けているような、「これってアート?それとも宗教?」といった不思議な新しい感覚が芽生えた。

ここに今回の展示のひとつの魅力がある。もちろん、そんなことを考えずにただ「鑑賞者」として観るだけでも良い。アートに正解はない。それはメディアアートにおいても同じだろう。

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映像と物質の相転移について考える

今回の展示には彼の解説が付いているため解説とあわせて自分のコメントを添えていこうと思う。映像と物質セクションの中では、

アーティストとして、研究者としては、

映像というイメージと物質で存在する世界の間の橋梁をどう形作るか

という大きな課題に取り組み続ける試みとしての表現・活動を行い、メディアアーティストとしては、

映像と物質自体の変換自体も風景に溶け込み、やがてその橋梁自体も無意味になる日を待っている。そんな時間と空間の間で,映像と物質の間を彷徨い続ける,移ろいやすいものと確かなものの間に物質を超越した風景を作り出そうと試みる

と述べている。これは今回の展示の大きなテーマといって差し支えない気がする。現状はこの「映像<>物質」の転移の間には常に何かしらの損失が伴っている。

適当な図解↓

イメージはこんな感じ。下手くそか!

解像度を近づけるという表現の試み

例えばシャープのテレビが4Kになることで現実により近い解像度で動画を見せるように。メディアアートの世界では装置を通じこれまで絵画や画像では損なわれてきた「匂い・手触り・音」といった視覚以外の五感に働きかけることで「解像度をあげる」試みを行い、より「現実」に近づける表現が行われることも多い。

間に存在する・或いは生じる憧憬や情念を露わにする試み

ただ、落合さんの作品では、「現実に近づけるために解像度をあげる」試みよりもむしろ、「映像と物質の持つそれぞれの特性を捉え分解し定義しつつその中間を表現することで橋梁の存在を消失させる」試みや「解像度の差異とそこから生じる副次的なものや失われるものからそれを捉える感覚を定義する」試みが見られようにと感じた。いわばアートという名を借りた実験であり、その過程が芸術であり、アートの名を借りた研究であり、情念の中に祈りがあり、人間というものの本質に迫るヒントがあり。

なんだか書いていてよくわからなくなってきた。も、もっと勉強しよう。

音響装置を質量に保存する

例えばこれ。音楽という生の表現を、録音し、再生する中で、その再生する装置の有限性に着目しているようだ。音楽データという質量に依存しないものをあえて「有限の装置」にて表現している。この装置、ガタガタいいながら音楽を流すのだが、いつテープがちぎれるかわからない不安定さを感じる。人がアナログレコードに感じる愛おしさのようなものをこの装置から感じることができる。無意識にその「有限性」に愛着を感じている。この感覚は何だろう。

ボロボロのC-3POや、使い古した靴や、古ぼけたテレビや、ファミコンや、アナログゲームに感じる懐かしさは何だろう。記憶とは何だろう。完全とは何だろう。そういった問いかけが頭に浮かんでくる。

この作品も好きだった。シャボン玉の薄い膜に蝶を転写している。すぐに消えてしまう膜の中に映し出される蝶に感じる有限性が愛おしい。その愛おしさは蝶そのものに感じる儚さへの愛にも似ている。

そもそも計算機自然って何だろう

彼が繰り返し言葉にする「計算機自然」とは何だろうか。

アーティストステートメントには

物化する計算機自然と対峙し映像と質量の間にある憧憬や情念を反芻する

と書いてある。なかなか難しい表現で書かれている。この「計算機自然」とは何だろうか。今回の展示の「共感覚と風景」セクションの中で以下のように書いていた。ここに書かれていることが「計算機自然」を捉えるにあたりわかりやすい表現かと思う。

我々の意識が計算処理するプログラムに過ぎないならば、意識が風景と一体化するような感覚それ自体も共感覚と呼ぶことができるのではないだろうか

自らの中にある「意識」そのものが高度な計算処理を行うプログラムであるとすれば、ではメディアが形作るプログラム化された映像や映像処理により生じた自然と、元来の自然そのものとの差異はどこに生じるのか?今後その解像度の差異が詰まった時に一体化する世界が今後生じ得るのではないか?

こうした問いかけが作品の創出につながっていそうだ。そしてこの問いかけは、まさに今のウィズコロナにより加速したリモート社会の中で更に真をもって我々に迫ってくる。映像の中で飲み会をし、映像の中で恋愛をし、映像の中で仕事をし、映像の中の音楽を楽しむ。元来の自然とプログラムとの垣根が無くなっていく中で生まれる新しい世界。

この展示は、そうした新しい世界について。或いは元来の自然について。捉えて考える機会なり得るものだった。

最後に。

この蝶すごく綺麗だったなあ。

おすすめの著書

こちらのブログでは本を紹介する際は自分が購入し読む予定のものを紹介している。読んだあとはそのレビューも書いていくつもりだ。

ちょうど本日Salesforce live(外部リンク)の基調公演の中で「ポストコロナの中小企業と成長戦略」について語っていたが、こちらの本は落合陽一氏のロングセラー『これからの世界をつくる仲間たちへ』を、現在の情勢を踏まえた上でアップデートして新書化している。

彼の取り組みはこのコロナ禍にダイレクトに関わってくるものなので非常に興味深いテーマになっている。

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